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ご冥福をお祈りします [邦楽]

仙台在住の郡川直樹氏が亡くなられたとの訃報を11月19日に受けた。

とにかく、ご冥福をお祈りします。

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郡川さんとは10月13日の仙台三曲協会定期演奏会でご一緒させていただき、夜はいつもの宴会をして別れたのが最後でした。

阪神淡路大震災(平成7年)で被災され関西から仙台へ転居されてきてからのお付き合いですから18年くらいのお付き合いになります。

先日も東京の法身寺の小菅さんから分けていただいた錦風流尺八の書籍の話で盛り上がったところでした。酒を酌み交わしながら尺八談義をする友がいなくなりとても寂しい。人が老いるというのは友が少なくなっていく寂しさの積み重ねということなのかもしれません。


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尺八と禅 [邦楽]

最近、尺八奏者で外国の人が目立つ。製管(尺八をつくること)までやってのける人がいる。都山流ネブチューン海山さんは有名だ。彼の場合は、長尺の尺八を洋楽のジャンルに持ち込んで吹きまくっている。一方で琴古流尺八奏者で本曲(尺八だけで演奏する曲)というジャンルに力を入れているのは、クリストファー遙盟さんという方もいる。三曲界でこのお二人の名前を知らないといえばもぐりになるかもしれない。

まあそれはともかく、彼らと同様に尺八を吹きたい外国の方々は、尺八に東洋的なものや神秘性を求めて入門される方が多い。それは「禅」という形の「瞑想」にあこがれるらしい。

もともと普化宗尺八は法器として扱われ「吹禅」としての意義を持つ。それにあこがれ尺八を手に取られる方が多い。しかし、実は外国人向けのパンフレットには「禅」の話は書かれていることが多いが、日本人の接するパンフレットにはそこまで書いていない。日本人ならそのくらいの知識は持っているだろうという意識があるからかもしれない。

日本人の尺八奏者の多くは「吹禅」などという言葉すら意識することなく吹いている。「禅」の一つの考え方として禅とは何もできない愚かな自分というものを見つめ直す行為であり、その結果を活かして再び何かに挑戦するといった姿勢を磨くもの。そういう意味では、出来ない曲を日々練習しできるようにすることも禅の一つにはなるかもしれない。(しかし、それが「吹禅」のすべてではない。)

本曲以外の曲に外曲というカテゴリがある。外曲は筝、三絃との合奏である。合奏は一つの小世界の中での演奏である。相手の呼吸を聞き取り、テンポを遅くしたり早くしたりしながら演奏をしていく。初心者が合奏をして失敗するのは、相手の呼吸を聞き取ることなく、また、相手の発する音を聞かないことによる、逸脱が主である。自己中心的では合奏が成立しないのは当たり前なのである。10年、20年の経験者でもそこを理解していないと合奏がうまくいかない。

こんな小世界で失敗しているのだから、社会ではさぞ大きな失敗をしているに違いないと怪しむのだが、こういう人に限って出世していることが多いのは不思議でならない。逆に見れば、自己中心的な生き方をしているからこそ社会的に出世しているのだろう。こういう人こそ必要に迫られ「吹禅」の修業が必要なのだろう。

今こそ尺八人口が増えても良さそうなものだが、増えないないのは、それだけ自己を見つめる余裕もないということなのだろう。実はそれが日本経済が上向きに大きく回復しない原因なのかもしれない。


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言葉と音楽 [邦楽]

音楽は一般的に楽器を用いる。もちろん、楽器がなくとも音楽はできるが、ある一定の標準的な音があったほうが簡単だ。だから楽器を用いる。声だけで成立させるには甚だ困難な場合が大きい。一人で奏でる鼻歌の類は音程が不安定である。もっとも個人の表現の自由であるからどのような音程であろうが個人として音楽は成立しているが、他人からはおおよそ良いという評価を受けることはない。鼻歌の類を大好きな人が、ある日突然自分とは違う音を耳にする。自分のこれまでの鼻歌より素晴らしいと思ったとき、人はその素晴らしい鼻歌を奏でたいという欲求にかられる。かくして、上手な人を師と決め鼻歌を真似し始めるはずだ。この鼻歌が各種楽器に置き換わっているのが現代ではないかと思っている。

しかし、よく考えると音楽の出会いはそれ以前にある。それは宗教である。無宗教を掲げるものであっても、友人、知人の葬式には参列するのが普通だ。そこで否応なしにお経を聞かされたり、神道なら祝詞、キリスト教なら讃美歌、イスラム教ならコーランを聞くことになる。

宗教は生き残った者への説教が主なイベントだ。説教が拒否されないようにするために、言葉の音韻の強調から音楽的なものへと発展したのではないかと考える。

日本においてテレビやラジオから流れる日本語は標準語と言われているが、イントネーションを切り捨てた。まだイントネーションのある言葉を聞くことができるのは、関西弁くらいだろうか。いやそんなことはない。関西弁よりも心地よいイントネーションが残っている地域がある。それは東北地方、特に青森県津軽半島に素晴らしいイントネーションを持っている津軽弁だ。秋田弁、盛岡弁、仙台弁は存在するが、絶滅危惧種でめったにお目にかかれない。しかし、津軽弁を話す人口は多い。津軽半島を旅すれば解る。イントネーションのある言葉は音楽に通じる。

日本語を標準語にしたのは誰だろうか。日本語がもともと持っていたイントネーションを封印したのは誰なのだろうか。

日本の西欧化は明治時代に始まった。そして、第二次世界大戦終戦後、GHQにより日本の文化破壊が行われた。日本人は知らず知らずのうちに日本語からイントネーションを取り上げられたに違いない。これが、日本文化を破壊するための手法だったのではないかと思っている。その影響は筝、三絃、尺八で合奏演奏される三曲界にもおよび新曲というジャンルが跋扈し、洋楽化したのだ。

古典とされる曲を演奏するものが少なくなっている。それは日本語の正しいイントネーションができないからだと思っている。平成も初めのころまでは、明治大正生まれのイントネーションのある日本語を使われる方が多かった。だからこそ三曲界(筝・三絃・尺八)が発展していたのだろう。古典は難しいと云われる。本来の日本語のイントネーションを忘れたから難しいのである。

平和な江戸時代に開花発展した日本音楽は平和な生活の一つのゲージである。三曲界(筝・三絃・尺八)において古典を演奏するものがいなくなるというのは平和な日本がなくなってしまうということではないのかと怪しんでいる。


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